起業から早や10年。40代を目前に、【旅行作家】として旅の世界に舞い戻る決意をしてから、4年近い月日が流れました。
近ごろは、作家志願者が多いと聞きますが、出版不況といわれるなか、ウェブ上で、自らの思いや体験を綴るひとも増えています。
「【旅行作家】になるために」と題して、シリーズで、我が半生を振り返ります♪
日本交通公社(現JTB)の社員として旅行業に従事した90年代初めは、団体旅行全盛期でした。
前職の銀行業界では、既にバブル崩壊が囁かれ、融資の焦げ付きもみえ始めていたころです。ところが、旅行業界への波及は、そうした最前線の経済情勢とは多少ずれる傾向がありました。
昨今の、個人手配旅行主流の時代とは異なり、(とりわけ、法人が対象となる団体旅行の場合)手配の関係上、決定時期は半年ないし、それ以前となります。そのため、経済情勢に、すぐに連動しないのが特長でした。
1989年から、新聞紙上で大々的に中途採用を募集しはじめたJTBでは、その翌年、女子だけを対象に募集を開始。100倍という倍率で、合格通知を手にしました。
近年、団体で一括の職場旅行が姿を消し、大企業の多くは、社員の自主性にまかせる方面別選択方式の旅行形態にシフトしています。
私が在職した、かつての【団体旅行東京中央支店】も、現在では【JTB法人東京】と名称を変更。組織は再編され、取扱いも、高度な知識やテクニックを要するものが主体となっています。
**画像は、奈良の長谷寺(はせでら)で、添乗員時代。
当時は、私たち営業マンが、営業した先の企業様のご旅行を企画立案し、添乗して、精算もする。という、一連の横割り仕事でしたが、この頃では、人件費削減の折り、社員ではなく派遣添乗員が添乗する縦割り方式に業務も変化しています。
特に、職場旅行はお手のもので、お客様を楽しませ、共に楽しんでしまう系の添乗員でしたから、我が天職!と実感したもの。日々、充実していました。とはいえ、添乗は身体が資本、体力勝負の仕事でもありました。
**インドネシア・バリ島へは、まだ日本人旅行者が少ないときに得意とした。
**西オーストラリア・パースへ、支店長たちの補佐役で。
**カナディアン・ロッキーに。当時は信用金庫の役員方がお客様でした。