2006年10月03日

【旅行作家】になるために vol.4

国際経済専攻の田中拓男ゼミ(経済学部)に在籍する一方で、大学時代の4年間を通してテニスサークルに所属。冬はスキー、ときにはゴルフと、ご他聞にもれず大学生活を満喫した私。時代は女子大生ブームなだけに、就職を考える以前は、学業そっちのけで、我が世の春を謳歌しました。
**テニス合宿(千葉県房総)で、皆あどけない表情。。

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とりわけスキーには真剣に取り組み、就職が決まってからの雪山シーズンには、大学OBが経営する菅平のペンションに、2ヵ月近く居候(いそうろう)をしたほど。苗場をはじめ、プリンスホテル系のスキー場を踏破する(北海道のニセコ東山へも飛ぶ!)など、ホイチョイ・プロダクションを地でいく格好でした。


時代はバブル期を迎え、学生の売り手市場といわれた1987年。ところが、思わぬ転がり方で、銀行員へのパスポートを手にすることになります。

米国流通業界を卒論テーマとした私は、当初、百貨店への就職を志望していました。国内の百貨店研究をしていくなかで、岡田事件に揺れる(アルバイト先の)三越ではなく、強い集客力を誇る伊勢丹に惹かれます。早くから、男女同一賃金を掲げてきた伊勢丹を第一志望にすえ、わずか1名枠の白門(OB)会推薦をとりつけるに至りました。
**田中拓男ゼミ卒業謝恩会でのひとコマ。。教授(中央)の右側が私です。

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そもそも伊勢丹には、同大学から毎年男女各1名程度しか採用枠がありません。内定を得るためには、新宿・伊勢丹のリクルーターのもとへ日参し、白門会推薦(OB推薦のこと)をとりつける必要がありました。体育会系の人材を好む企業柄。日参することで、売り場すべてを熟知し、本試験に臨みました。


ところが、本試験では、同じ経済学部に在籍するマレーシア人留学生が、推薦なしで内定を獲得。私は、あえなく不採用となりました。折りしも伊勢丹が、その翌年、クアラルンプールに出店する計画があったのです。(彼女は開設準備の要員として、入社後すぐに、現地へと赴きました。)

日参した先の伊勢丹リクルーターOBは、この意外な展開に、落胆と驚きの表情を隠せないでいました。そして、踵(きびす)をかえして「(同大学の)就職部へ、すぐ行くように」と言うのです。冗談のような話ですが、私を担当したリクルーターOBの、実のお父上が、中央大の時の就職部長だったのでした。

人生には、いくつかの奇遇があります。
くだんの就職部長は、採用試験がこれから始まる大手都市銀行のなかでも、他行に先駆け、男女雇用機会均等法準拠の大卒女子専門職を大量採用すると発表した富士銀行を志望するよう、私に勧めました。「就職部推薦を出します」と一言、私の目の前で、すぐさま筆をとったのです。




posted by 千葉千枝子 at 03:19| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(1) | 旅行作家・観光ジャーナリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする